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降っても晴れても

好きな本や映画についてごにょごにょ書きます

映画『風立ちぬ』を見て

81日に宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見てきました。

序盤から「なんて恐ろしい映画なんだ」とぞわぞわしていたわけですが、ツイッターでつぶやくとネタバレになってしまうので、ちょっと感想を書きたいと思います 。

 

『風立ちぬ』の何が恐ろしかったかと言いますと、その残酷さ。

そして、あの作品に登場する男性たちに潜む「悪魔的な」もの。

 

あの映画は、一種、知的階級から見た戦争なんだと感じました。

堀越二郎は、お坊ちゃん育ちであり、帝国大学卒業後、三菱に就職した所謂エリート。

冒頭、混雑した三等車から、都会的なお嬢様である菜穂子が乗っている空いた二等車のドアがゆっくりと閉まって行くのが二郎の視点から描かれている場面がありますが、それにしたって、二郎は「一般的な庶民」とは到底言えない。

彼の視点からは、そして、この映画からは、「一般的な庶民」が抜け落ちていると言えるのではないでしょうか。

4分間の予告編で、「1920年代の日本は、不景気と貧乏、病気、そして大震災と、まことに生きるのに辛い時代だった」とテロップが入り、その中で「当時の若者たちがどう生きたのか」と続いているわけですが、この映画に本当に生きるのに困難な人なんて目立って登場しない。

菜穂子は、確かに結核を患っていますが、不景気と貧乏は登場人物たちには直接的に関係のないこと。関東大震災も大して彼らには影響がない。

それらに苦しんでいる人物として強いて挙げるのであれば、二郎が会社帰りにシベリアをあげようとするお腹を空かせた兄弟たちぐらい。

「それはお前のエゴイズムだ」と本庄に指摘されるこの行動ですが、その後、彼らの話題は、自分たちが飛行機をつくるお金で、日本中の飢えている子どもたちが腹一杯食べられるという話になってしまう。

銀行の取り付け騒ぎも車の中から「大変だなぁ」と見ているだけ。

ぞっとしたのは、関東大震災後に本郷の学校で、火事から本を守っているのにも関わらず、本庄と二郎がタバコを吸う場面。

東京中が燃えているにも関わらず、冷静にタバコを吸う本庄と二郎こわい。こわすぎる。

本当に病気、不景気、貧乏で苦しんでいる人、1920年代の庶民というのは、風立ちぬの中では背景的存在でしかない。

二郎が勤める会社の作業員なども一応描かれていますが、あそこで目立つのが灰色の服を着た労働者の中を歩くうす紫や白い服を着た二郎。

彼は油にまみれて、飛行機を整備したりは決してしない。

空母に着陸する際に、飛行機の不具合によってエンジンの油まみれになる場面がとても印象的でした。

あぁ、二郎が汚れちゃった!と。

彼は近眼故にパイロットになる夢を諦め、そして、ある程度完成されて、触っても大して汚れはしない飛行機を眺めるだけの図面を引く設計士になるわけです。

彼は飛行機を作る上で最も清潔な箇所だけを担い、ただただ飛行機の美しさに恋いこがれている。

工場で働いている労働者とエリートである彼は、明らかに違う。

それは、実際二郎が形作った飛行機で命を落してゆく若者たちと、安全なところでそれを指揮している人間たちとの差にも通じるものがあると思います。

(余談ですが、わたしが見た回では、本編の前に同じく第二次世界大戦を舞台した映画である永遠のゼロと少年Hの予告編がやっていたので、余計にそこが気になりました。) 

そう考えると、映画の終盤、大勢の作業員が、零戦の原型となる飛行機を定位置までずんずんと押して行く場面は見ていて、恐怖さえ感じました。(わたしには、あの人たちが、もののけ姫の乙事主について行く小型のイノシシみたいに見えた。)

 

そして、第二次世界大戦の場面を直接的に描かれなかったのは、二郎にしてみれば、そんなことどうでもいいからなのかな、と。

つまり、口には出さないものの、「美しい飛行機」が作れれば、世の中がどうなっていようと、その飛行機がどんな用途で仕様されようと関係ないという二郎の態度が、この作品における「残酷さ」の最たるものであり、実際の戦闘シーンを、そして本当にあの時代に生きるのに本当に大変だった一般庶民がちょっとした背景としてしか描かれなかった点に現れているのではないでしょうか。

 

そして、風立ちぬの「悪魔的な何か」が、そこにあると思います。

聞いた情報によると、宮崎駿はイタリア人カプローニを、二郎にとってのメシストフェレス的存在として位置づけているようなのですが、そのカプローニは、夢の中で三十すぎのいい年した二郎に最後まで「ニッポンの少年よ」と呼びかける。

二郎は、夢の中でカプローニと言葉をかわした時点から、飛行機という魔物に魅入られ、悪魔との取引をしたと言えるでしょう。 

途中、トマス・マンの『魔の山』に関する言及がありますが、あれは一般的に教養小説と言われているドイツの小説であり、教養小説とは簡単に言ってしまえば「自己形成の物語」であると言えます。

しかし、この風立ちぬは、自己形成どころの話じゃない。大したイニシエーションもない。

菜穂子の言うように、二郎はちっとも変わりはしない。

目の前に、今、困っている人がいれば、助けてあげ、綺麗なものと綺麗な女性が好きな、端から見れば「いい青年」のまま。

しかし、実際の彼は「青年」にもならず、夢の中で、自分で作った飛行機に乗り、自由に飛び回っていた「ニッポンの少年」の頃のまま生き続けている。

それは、カプローニというメシストフェレスと契約し、突き進み続けた10年と言う年月のある種の代償なのでしょう。

 

そして、成長をしないという点で、一番気になったのが、二郎の妹、加代の描写。

終盤、彼女は「医者のたまご」として、菜穂子を診に来るわけですから、二十歳はとっくに越えているはずなのに、何故か顔や髪型は、冒頭で「にぃに!」と二郎の後を追っかけていた幼少期のままで、目立って成長していない。なぜ、加代は成長しないのか。

この作品の中で、唯一、二郎に「薄情だ」と終始変わらずに言い続けるのは加代だけ。

しかも、風立ちぬにおいて、女性は菜穂子にしても、黒川夫人にしても、二郎の母親にしても、みんな彼を見守り、包み込んでくれる母親的な人物として描かれているのに対して、加代だけが彼を「薄情だ」と責め続ける。

(そんな加代の言葉を二郎は大して気にしていない訳ですが

そんな加代がいつまでも、同様に幼少期からの成長が描かれる菜穂子のように綺麗な「大人の女性」にはならずに、子どものような顔をし、菜穂子が黒川宅を出て行ったとわかったときには、まるでトトロのメイのように顔をくしゃくしゃにして泣くという描写が私には引っかかりました。

 

ちなみに、菜穂子ですが、わたしはそこまで批判的には受け止めませんでした。

確かに、ロリコン、マザコンの願望を一遍に体現したような女性ではあると思いますが、菜穂子だって結局エゴイズムで行動している人物です。

震災のときに助けてくれた二郎を生涯、自分の王子様だと思い、健気に愛する。

それが彼女の幸せであり、彼女が二郎を愛する最たる理由なのでしょう。

山から一人で名古屋まで追いかけて来た菜穂子と結婚しようとする二郎に対して、黒川が「それは愛情ではなく、エゴイズムだ」と諭す場面がありますが、それは菜穂子にも同様に言えることです。

二郎が、飛行機という"美しい夢"を見るのと同様に、菜穂子は「愛」という"美しい夢"を二郎の中に見ていたのだと思います。 

 

と書いてきましたが、実際は一緒に見に行った友達に引かれるほど泣いてしまいました。

この映画は好きか?と聞かれたら、ちょっと微妙なところなのですが、見てよかったと思えますし、それなりに満足感の得られる作品でありました。

また機会があればじっくりと見て考えたいと思います。